homeflow — secondhand & eye
リサイクルショップが好きだった。
有名な大きいお店にも行っていたし、田舎にある小さな個人のお店にもよく行っていた。服だけを見るわけではなくて、興味のあるところはざーっと全部見る。靴、かばん、服、食器、家具。何かありそうな棚は、とりあえず見る。
おしゃれな古着屋も好きだった。
でも、おしゃれな古着屋は、ちゃんと高かった。いいものは高い。当たり前なのだけれど、そこにはデザインの分とか、ブランドの分とか、お店の世界観の分もちゃんと乗っていた。
わかる。かわいいし、そうやって選んで並べてくれているのだから、値段がつくのもわかる。
そして、かわいかったらまんまと買うこともあった。
でも、小さなリサイクルショップには、それとは違う楽しさがあった。
特に田舎の小さなお店には、値段のつき方が少し不思議なものがあった。誰かの個人的な興味とか、お店の人の感覚とか、たまたまそこに来たものとか、そういうもので値段が決まっているような感じがあった。
なぜか安い。
なぜか、そこにある。
それが面白かった。
古いタンスを三千円くらいで買ったことがある。アンティークというほど立派な言葉をつけるより、古いタンスと言った方が近い気がする。田舎のお店に置いてあって、いいなと思って買った。
今でも元気に使っている。
和のお皿も見つけた。鶴の絵が入っていて、すごく好きだった。値打ちがあるものなのかはよくわからない。たぶん、そこまでではないのかもしれない。
でも、私はその鶴が好きだった。
黒い麻のスカートも覚えている。
金の糸で刺繍がしてあって、ちゃんとものがよかった。黒い麻に、金の糸。その組み合わせだけでもう好きだった。華やかなのに、少し落ち着いていて、でも地味ではない。
フェラガモの定番の靴も、よく買っていた。六千円くらいだったと思う。履き心地がすごくよくて、毎日のように履いても、三年くらいは余裕で持った。
靴だから市場価値が低いのはわかる。かばんとは違うし、サイズもあるし、履いたものだし、そういうものだとは思う。
でも、それにしても、あの値段であの履き心地と持ちのよさはすごかった。
そういうものを見つけるのが、すごく楽しかった。
安いからうれしい、というのはもちろんある。
でも、それだけではなかった。
たぶん私は、まだ見つかっていないものに目が止まる感じが好きだった。
価値のあるものも、そうでもないものも、古いものも、少し変なものも、誰かがもういらなくなったものも、全部一緒に置かれている。
その中で、これは生地がいいかもしれないと思う。これは革がやわらかいと思う。これは形がきれいだと思う。これは値段のつき方が少し変だと思う。
そうやって見る時間が好きだった。
母に教わった素材を見る目も、たぶんそこで使っていた。
本革か。
麻か。
ウールか。
刺繍はどうか。
仕立てはどうか。
触った感じはどうか。
そういうものを見ながら、その棚を通り過ぎる。
何もない時もある。もちろん、ほとんど何もない時もある。むしろ、その方が多いのかもしれない。
でも、たまにある。
あ、これだ、と思うものがある。
その瞬間が好きだった。
今は、古いものにもブランドのものにも、だいたいネットの相場がある。誰でも調べられる。便利だし、正しいことなのだと思う。
でも、少し面白くなくなった。
昔はもう少し、ものの価値とついている値段が、ずれていることがあった。店の人の興味がそこになかったのかもしれないし、ただ早く売りたかったのかもしれないし、田舎のお店だったからなのかもしれない。
理由はよくわからない。
でも、そのずれの中に、宝探しみたいな楽しさがあった。
価値がわからないまま置かれていたもの。
価値はあるけれど、誰にも見つかっていなかったもの。
誰かにとってはただの古いものだけれど、自分にはすごくよく見えるもの。
そういうものが、ぽろっと置かれていた。
きれいに選ばれた店も好きだけれど、それだけでは少し足りない。全部が整っていて、価値がもう説明されていて、値段もきれいについている場所より、まだ何かが紛れていそうな場所に惹かれる。
入って、ざーっと見る。
服を見る。靴を見る。かばんを見る。皿を見る。家具を見る。
その中で、急に目が止まるものがある。
まだ見つかっていないものが、そこにある気がした。
そしてたぶん今も、少しそう思っている。
text — homeflow編集部