投稿者: homeflow_admin

  • 玄関には、まだ出ていないものがある。

    homeflow — entrance & waiting

    玄関に、ものが置いてある時がある。

    母が作ってくれたおかずのタッパー。友人に渡したいお土産。お裾分けの袋。返す予定の本。リサイクルに出す段ボール。

    どれも、ずっとそこにあるものではない。

    まだ家の中にある。
    でも、もう奥へは戻らない顔をしている。

    靴箱の横に、ちょうどいい隙間がある。

    そこに置いておくと、出かける時に目に入る。家の奥に置くには、もう少し外に近い。外に出してしまうには、まだ少し早い。

    だから、玄関にいる。

    おかずの入ったタッパーは、返す相手のところへ戻る。お土産は、誰かの手に渡る。本は、また別の棚へ帰る。段ボールは、家の中で役目を終えて、次の場所へ行く。

    どれも、少しだけ行き先がある。

    ひとつ置くと、もうひとつ増えることがある。紙袋が重なる。段ボールが少しはみ出す。隙間のはずだった場所が、いつの間にか小さな待合室みたいになっている。

    でも、置かれているものは、まだここにいたいわけではなさそうに見える。

    もう少しで出ていく。
    でも、まだ出ていない。

    玄関には、まだ出ていないものがある。

    今日の家の中にありながら、少しだけ先の方を向いている。

    text — homeflow編集部

  • 不可よりの可で、置いている。

    homeflow — useful & almost

    プラスチックが好きではない。

    できれば、見えるところにはあまり置きたくない。軽くて、つるっとしていて、置く場所によっては、少し安っぽく見えることがある。便利なのはわかる。でも、空気としては、あまり好きではない。

    それでも、置いているものがある。

    白いプラスチックの小さい引き出しを、子どもたちにそれぞれ持たせている。リビングの本棚に置いて、ひとりずつ小さな場所を作った。ペンを入れたり、お気に入りの宝物を入れたりする場所。ここはあなたの場所だから、勝手に触らないよ、と言える場所。

    それが、ほしかった。

    子ども部屋ではなく、リビングの中にある小さな自分の場所。大きな収納ではなくて、ちょっとした引き出し。紙切れやシールや、拾ってきた石みたいなものや、よくわからないけれど本人には大事そうなものが入る場所。

    そのためには、ちょうどよかった。

    値段も、サイズも、使い勝手も、ちょうどよかった。子どもが使うものだから、軽くて、扱いやすくて、壊れてもあまり気負わないものがいい。引き出しも開けやすい。中に何が入っているかも、なんとなくわかる。

    見た目は、まあ、及第点。

    すごく好きではない。置いた瞬間に空気がよくなるものでもない。木の小さな引き出しで、サイズがぴったりで、値段もちょうどよかったら、たぶんそちらを選んだと思う。

    でも、そんなに都合のいいものは、なかなかない。

    だから、不可よりの可。

    不可ではない。ちゃんと可ではある。好きではないけれど、まあ、ありなんよ、という感じでそこにいる。

    白いファイルボックスもそうだ。冷蔵庫とシンクの隙間に、ちょうど入る。軽いから、磁石で浮かせることもできる。そこにあると便利で、邪魔にならない。冷蔵庫横だから、まあギリギリセーフ、と思っている。

    見える場所の真ん中に置きたいわけではない。
    でも、そこになら置ける。

    家の中には、好きだから置いているものと、必要だから置いているものがある。

    本当は、全部が好きな素材でできていたらいい。木や布やガラスや、手に触れた時に少し気持ちが落ち着くものだけで暮らせたら、それは気持ちがいいと思う。でも、実際の生活は、そんなにきれいには揃わない。

    値段もある。サイズもある。軽さもある。子どもが使いやすいかどうかもある。濡れる場所なのか、汚れやすい場所なのか、毎日開け閉めするのかもある。

    好きだけでは、選べない時がある。

    それでも、好きではないものを、ただ我慢して置いているわけでもない。そこに入れるものがあって、そこを使う人がいて、その形だとちょうど回る場所がある。

    子どもたちの小さな宝物が入る。冷蔵庫横の隙間が、ちゃんと使える場所になる。なくても暮らせるかもしれないけれど、あると少し楽になる。

    そういうものを、全部なかったことにはできない。

    好きなものだけで家を作りたい気持ちはある。でも、家は、好きなものだけでは回らない。見た目がぎりぎりで、素材もそこまで好きではなくて、それでもちょうど働いているものがある。

    好きじゃないけど、まあ、ありなのだ。

    今日もそこにある。
    不可よりの可の顔をして、ちゃんと働いている。

    text — homeflow編集部

  • これは捨てられんわ、と思うものがある。

    homeflow — childmade & taste

    子どもが作ったものを、全部取っておくわけではない。

    園や学校から持って帰ってくるものはたくさんあるし、紙も工作も、気づけばどんどん増えていく。全部を飾ることも、全部を残すことも、うちではたぶん無理だ。かわいいと思っても、しばらく置いて、いつの間にか片づけるものもある。

    もちろん、子ども本人が残したいと言ったものは残している。でも、本人がもういらないと言っても、私が捨てられないものがある。

    紙粘土と絵の具で作った人形がある。両手を上げて、青いワンピースを着て、赤い靴を履いている。顔も形も、きれいに整っているわけではない。でも、めちゃんこかわいい。見るたびに、なんでこんなにかわいいんだろうと思う。

    ずっと飾っている。

    子どもが作ったから、というだけではないと思う。もちろん、作った時のことや、その子の年齢や、持って帰ってきた日のことも、どこかには残っている。でも、それだけなら、他にもたくさんある。これはたぶん、私が好きなのだ。私の好みの中に、すっと入ってきてしまった。

    別の子が描いた絵も、しばらく飾っていた。たしか、クジラの絵だったと思う。ピンクとオレンジの配色のバランスがすごくよくて、壁にあると少しハッピーになる絵だった。子どもの絵だからかわいい、というより、色の感じがよかった。そこにあるだけで、部屋が少し明るく見えた。

    でも、飾っているうちに剥がれてきて、破れそうになったので、泣く泣く引き上げた。紙のものは、ずっと同じようには置いておけない。好きでも、弱い。そこも少し切ない。

    上の子が描いた、弟が寝ているところの絵もある。小学校低学年の頃だったと思う。弟が風邪をひいて寝ていたところを描いたのだったかもしれない。

    これも、ほんまに素敵なのだ。

    上手いとか、似ているとか、そういうことではない。大人なら整えてしまうようなところが、その絵には残っている。見ていると、たしかにそう見えていたのかもしれない、と思う。うまく言えないけれど、ちゃんと見てしまう。

    もちろん、どれもその時だけのものだし、簡単には戻れない時間のものではある。でも、思い出だけなら、きっと他にもある。私が残したくなるものは、色が好きだったり、形が好きだったり、表情が好きだったり、全体の空気がよかったりする。

    私の好みで、残っている。

    だから、全部ではない。
    でも、これは捨てられんわ、と思うものがちょいちょいある。

    青いワンピースに赤い靴の人形。壁にあるとハッピーだったクジラの絵。弟が寝ているところを描いた絵。どれも、きれいに整った作品ではない。でも、そこにしかない空気がある。

    家にあるものは、買ったものだけではできていない。

    誰かが作って、持って帰ってきて、なんとなく置かれて、気づいたら残っているものがある。残そうと決めたというより、残ってしまったもの。捨てようとすると、ちょっと待って、と思うもの。

    これは捨てられんわ。

    そう思うものが、家の中に少しある。
    それはたぶん、子どもの作品だからではなく、私が本当に好きなものだからだと思う。

    text — homeflow編集部

  • 重たいのに、抜けている家具。

    homeflow — old furniture & air

    古い家具が好きだ。
    でも、古ければ何でもいいわけではない。傷があるとか、色が濃いとか、昔のものだからいい、というだけでもない。置いた時に、その場所の空気が少し変わるものが好きなのだと思う。

    社宅に住んでいた頃、古い箪笥を置いていた。ダイニングキッチンのあたりだったと思う。リビングとの仕切りは取っていたけれど、そこをダイニングとして使っていたわけではなく、ほとんどキッチンの延長みたいな場所だった。だから、あまり物は置いていなかった。

    その、すっきりしたスペースに、古い箪笥だけがあった。

    それが、すごくよかった。
    何もない場所に、箪笥の重さがひとつある。木の色も、形も、今の家具より少ししっかりしていて、そこにあるだけで空間がふわふわしない。でも、まわりに物が少ないから、重たくなりすぎない。ちゃんと重いのに、抜けている。その感じが好きだった。

    同じ社宅には、四角いちゃぶ台もあった。太い猫足みたいな形の脚で、引き出しがついている。和室をリビングのように使っていて、ご飯もそこで食べていた。そこにそのちゃぶ台を置くと、部屋が一気に引き締まった。

    ちゃぶ台というと、丸くて、少し懐かしくて、やわらかいものを思い浮かべるけれど、そのちゃぶ台は少し違っていた。四角くて、脚に重さがあって、でも低いから圧迫感はない。和室の畳の上に置くと、部屋の真ん中に小さな芯ができるようだった。生活の場所なのに、少しだけ空気が決まる。その決まり方が、ちょうどよかった。

    今の家には、食卓がある。ご飯を食べる場所はテーブルになった。ちゃぶ台は、しばらくソファの横に置いていた。子どもが小さい頃は、そこでお絵描きをしたり、少し絵本を立てて本棚みたいにしたりしていた。ご飯を食べる場所ではなくなったけれど、小さな作業台みたいに、ちゃんと居場所があった。

    でも、子どもが大きくなって、家族も増えて、ソファも大きくなった。本棚も大きいものが欲しくなった。床も少し空けておきたくなった。そうすると、そこに置き続けることはできなくなった。

    今、ちゃぶ台は倉庫にいる。
    泣く泣く、という感じでしまっている。

    好きだから置いておけるわけではない。家具には場所がいる。部屋の広さや、家族の人数や、ソファの大きさや、床を空けておきたい気持ち。そういうものと一緒に、置ける場所が決まっていく。

    それでも、古い家具がひとつ入った時の感じは、やっぱり好きだ。
    すっきりした場所に、少し重たいものがある。重たいのに、空気が止まらない。むしろ、その重さがあるから、まわりの余白がきれいに見えることがある。

    古い家具のよさは、たぶんそこにある。
    全部を古いもので揃えたいわけではない。部屋を重厚にしたいわけでもない。ただ、空いた場所にひとつ置いた時、その家具が部屋の空気を少し締めてくれる。ちゃんとそこにいて、でも邪魔をしない。

    社宅のダイニングキッチンにあった箪笥も、和室にあった四角いちゃぶ台も、そういう家具だった。重たいのに、抜けている。古いのに、空気が濁らない。そこだけ少し、部屋の芯になる。

    今も使っている家具と、今は倉庫にいる家具。
    どちらも、好きなまま残っている。

    text — homeflow編集部

  • 紐が余っても、気にしなかった。

    homeflow — clothes & freedom

    前が浴衣みたいに合わせられるカーディガンを持っていた。身頃の内側にも紐がついていて、左右をそれぞれ結べるようになっている。主には開けて着ていたけれど、少しだけ紐を結んでもかわいかった。着物みたいに合わせてもいいし、前で結んでもいい。余った紐は、まあ気にしない。

    そういう服に、よく目がいった。着方がひとつに決まっていない服。開けてもいいし、結んでもいいし、少しずらしてもいい服。きれいに始末されているものももちろんいいけれど、どこかに動かせる余地があると、急に楽しくなる。紐が少し余っているくらいの方が、自分で着ている感じがした。

    スカーフもよく腰に巻いていた。腰にあると服の空気が変わる気がした。ワンピースやパンツに布が一枚足されるだけで、少し違って見える。細いブレスレットを、手首よりもう少し手の方に巻くのも好きだった。アクセサリーなのか飾りなのか、少しよくわからないくらいでいい。ちゃんとした場所に、ちゃんとおさまっていない感じがかわいかった。

    白い服に白を合わせたり、ワンピースにスニーカーを履いたり、柄の入ったゆるいパンツやヨガパンツみたいなものを着たりするのも、たぶん同じところにあった。きれいな服をきれいに着るだけでは、少し足りない。どこかを外したり、ゆるめたり、違う場所に持ってきたりすることで、服が少し自分の方に寄ってくる感じがあった。

    友達が、これかわいいよね、と言うことがあった。でも、恥ずかしいかな。変だと思われないかな。私っぽくなくないかな。それを聞くと、そんなの気にしなくていいかもよ、と言っていた。それで結婚式に行くわけじゃないんだし。ふだんの服だから、少しくらい変でもいい。かわいいものは合わせてみて、着てみてわかる。

    もちろん、いつでも何でも自由でいいわけではない。TPOはある。場所にも相手にも失礼がないようにすることは大事だ。でも、その中でも、ふだん服ならもう少し、遊ぶ余地があってもいい気がしていた。首に巻くものを腰に巻いてもいいし、紐を全部きれいに結ばなくてもいい。ワンピースにスニーカーでもいい。少し変でも、自分の中でかわいければ、それでよかった。

    今は、そういう着方もかなり普通になった。白い服も、ワンピースにスニーカーも、柄のゆるいパンツも、着物っぽい羽織も、いくらでもある。スカーフもアクセサリーも、昔よりずっと自由に使われている気がする。それはいいことだと思う。探しやすいし、買いやすいし、かわいいものもたくさんある。

    でも、少しだけ、昔のような「これが私の好きなもの」という感じは薄くなった。嫌いになったわけではない。今でもそういう服には目がいくし、きっとこれからも着ると思う。ただ、こういう服、いっぱい売っているな、と思うことが増えた。ものが悪くなったのではなくて、私の目の止まり方が少し変わったのだと思う。

    それでも、紐が余っている服を見ると、今でも少し気になる。どう結ぶのだろう。開けて着たらどう見えるだろう。ゆるく垂らしたらかわいいかもしれない。きちんと着る前に、少し手で動かしてみたくなる。服は、正しく着るものでもある。でも、正しく着るだけのものではない。

    紐が余っても、少し変でも、そこに自分の気分が残っていれば、それでよかった。たぶん私は、そういう服の自由さに、ずっと目が止まっていたのだと思う。

    text — homeflow編集部

  • 刺繍を見ると、少し手が止まる。

    homeflow — embroidery & hand

    刺繍が好きだ。

    でも、いつから好きだったのかと聞かれると、はっきりとは思い出せない。

    たぶん最初は、洋服だったと思う。刺繍のある服を見ると、すごくかわいいなと思っていた時期がある。無地の布の上に、糸で模様がのっているだけで、急に空気が変わる感じがした。

    それが花だったのか、鳥だったのか、幾何学模様だったのか、細かくは覚えていない。

    ただ、刺繍があると目が止まった。

    刺繍の服も、いくつか持っていた気がする。それを着ると気分が上がるような、少し自慢したくなるようなものも、たぶんあった。

    でも、今はもうはっきり思い出せない。

    それくらいなのに、刺繍が好きだった感覚だけは残っている。

    プリントとは少し違う。布の上に色があるだけではなくて、糸が少し浮いている。近くで見ると、線が一本ずつある。そこに少しだけ厚みがある。

    布に少し刺繍が入っているものも好きだ。

    余白のある布に、ぽつんと糸の模様があるのもかわいい。端の方に少しだけ刺してあるものにも目がいく。

    新婚旅行では、トルコの刺繍のクッションカバーを買った。それは、全面に刺繍がしてあって、布なんてただの台みたいだった。糸の色もよくて、ものすごくかわいかった。

    トルコのクッション、という感じはある。けれど、いかにもトルコのお土産です、という強さとは少し違った。柄も色も、どこか見たことがない感じで、日本ではまだ同じようなものに出会ったことがない。

    布に少し刺繍があるものも好きだけれど、あれはまた違った。

    布の上に刺繍があるというより、刺繍が布の表情そのものになっていた。糸が重なって、色が重なって、ただの布だったものが、別のものになっている感じがした。

    今思うと、刺繍そのものだけを見ていたわけではなかったのかもしれない。

    その頃の私には、刺繍のある服や布が、少し見慣れないものに見えていた。かわいいのだけれど、ただかわいいだけではなくて、少しだけ外から来たような感じがあった。

    まだ、自分の中で名前がついていないものを見る感じに近かった。

    自分でも、刺繍をしてみたことがある。 妹の結婚式に、全面刺繍のリングピローを作った。子どものTシャツに、小さく名前を刺したこともある。やってみると、刺繍は思っていたよりずっと大変だった。小さなものでも時間がかかるし、布によっては針がなかなか通らない。かわいくしたいと思って始めたのに、途中で、なんでこんな図案にしたんだろうと思うこともあった。

    それでも、刺している時間はどこか楽しかった。

    見るだけだった刺繍の中に、少しだけ手の時間が見えるようになった。

    最近は、刺繍のあるものがとても普通になった気がする。服にも、雑貨にも、刺繍は当たり前のように入っている。かわいいものもたくさんある。

    それはいいことなのだと思う。

    でも、前ほど目が止まらなくなった。

    刺繍が嫌いになったわけではない。今でも好きだし、かわいいと思う。

    ただ、昔の私が見ていた刺繍には、もう少しだけ、特別な空気があったのかもしれない。

    布の上に糸がのっているだけで、何かが変わったように見えた。

    その感じが、好きだったのだと思う。

    刺繍を見ると、今でも少し手が止まる。

    刺繍について詳しく語れるわけではない。技法の名前も、国ごとの違いも、ちゃんと説明できるわけではない。

    でも、トルコのクッションカバーのことは覚えている。

    布なんてただの台みたいで、糸の色がよくて、全面が刺繍で埋まっていた。

    昔持っていた刺繍の服のことは、もうあまり思い出せない。

    それでも、刺繍を見ていた時の感じだけは、少し残っている。

    たぶん私は、刺繍そのものだけではなく、刺繍がまだ少し見慣れないものに見えていた頃の空気が好きだった。

    そういうものを見ると、少し手が止まっていた。

    text — homeflow編集部

  • まだ見つかっていないものがある気がした。

    homeflow — secondhand & eye

    リサイクルショップが好きだった。

    有名な大きいお店にも行っていたし、田舎にある小さな個人のお店にもよく行っていた。服だけを見るわけではなくて、興味のあるところはざーっと全部見る。靴、かばん、服、食器、家具。何かありそうな棚は、とりあえず見る。

    おしゃれな古着屋も好きだった。

    でも、おしゃれな古着屋は、ちゃんと高かった。いいものは高い。当たり前なのだけれど、そこにはデザインの分とか、ブランドの分とか、お店の世界観の分もちゃんと乗っていた。

    わかる。かわいいし、そうやって選んで並べてくれているのだから、値段がつくのもわかる。

    そして、かわいかったらまんまと買うこともあった。

    でも、小さなリサイクルショップには、それとは違う楽しさがあった。

    特に田舎の小さなお店には、値段のつき方が少し不思議なものがあった。誰かの個人的な興味とか、お店の人の感覚とか、たまたまそこに来たものとか、そういうもので値段が決まっているような感じがあった。

    なぜか安い。

    なぜか、そこにある。

    それが面白かった。

    古いタンスを三千円くらいで買ったことがある。アンティークというほど立派な言葉をつけるより、古いタンスと言った方が近い気がする。田舎のお店に置いてあって、いいなと思って買った。

    今でも元気に使っている。

    和のお皿も見つけた。鶴の絵が入っていて、すごく好きだった。値打ちがあるものなのかはよくわからない。たぶん、そこまでではないのかもしれない。

    でも、私はその鶴が好きだった。

    黒い麻のスカートも覚えている。

    金の糸で刺繍がしてあって、ちゃんとものがよかった。黒い麻に、金の糸。その組み合わせだけでもう好きだった。華やかなのに、少し落ち着いていて、でも地味ではない。

    フェラガモの定番の靴も、よく買っていた。六千円くらいだったと思う。履き心地がすごくよくて、毎日のように履いても、三年くらいは余裕で持った。

    靴だから市場価値が低いのはわかる。かばんとは違うし、サイズもあるし、履いたものだし、そういうものだとは思う。

    でも、それにしても、あの値段であの履き心地と持ちのよさはすごかった。

    そういうものを見つけるのが、すごく楽しかった。

    安いからうれしい、というのはもちろんある。

    でも、それだけではなかった。

    たぶん私は、まだ見つかっていないものに目が止まる感じが好きだった。

    価値のあるものも、そうでもないものも、古いものも、少し変なものも、誰かがもういらなくなったものも、全部一緒に置かれている。

    その中で、これは生地がいいかもしれないと思う。これは革がやわらかいと思う。これは形がきれいだと思う。これは値段のつき方が少し変だと思う。

    そうやって見る時間が好きだった。

    母に教わった素材を見る目も、たぶんそこで使っていた。

    本革か。
    麻か。
    ウールか。
    刺繍はどうか。
    仕立てはどうか。
    触った感じはどうか。

    そういうものを見ながら、その棚を通り過ぎる。

    何もない時もある。もちろん、ほとんど何もない時もある。むしろ、その方が多いのかもしれない。

    でも、たまにある。

    あ、これだ、と思うものがある。

    その瞬間が好きだった。

    今は、古いものにもブランドのものにも、だいたいネットの相場がある。誰でも調べられる。便利だし、正しいことなのだと思う。

    でも、少し面白くなくなった。

    昔はもう少し、ものの価値とついている値段が、ずれていることがあった。店の人の興味がそこになかったのかもしれないし、ただ早く売りたかったのかもしれないし、田舎のお店だったからなのかもしれない。

    理由はよくわからない。

    でも、そのずれの中に、宝探しみたいな楽しさがあった。

    価値がわからないまま置かれていたもの。
    価値はあるけれど、誰にも見つかっていなかったもの。
    誰かにとってはただの古いものだけれど、自分にはすごくよく見えるもの。

    そういうものが、ぽろっと置かれていた。

    きれいに選ばれた店も好きだけれど、それだけでは少し足りない。全部が整っていて、価値がもう説明されていて、値段もきれいについている場所より、まだ何かが紛れていそうな場所に惹かれる。

    入って、ざーっと見る。

    服を見る。靴を見る。かばんを見る。皿を見る。家具を見る。

    その中で、急に目が止まるものがある。

    まだ見つかっていないものが、そこにある気がした。

    そしてたぶん今も、少しそう思っている。

    text — homeflow編集部

  • 母は「ものがいいね」と言った。

    homeflow — mother & material

    母は、ものを見る目を教えてくれた。

    遺伝というより、教育だったと思う。教育というと少し大げさだけれど、母のこだわりを、買い物の時や、テレビを見ている時や、誰かの服を見た時に、少しずつ聞かされていた。

    母はよく、「おばあちゃんが言っていた」と言っていた。

    たとえば、お葬式の時の礼服。みんなが同じ黒を着ている時こそ、ものの良さが出るのだと。そういう時に、いいものを着なさい、と。

    子どもの頃は、へえ、と思うくらいだった。黒は黒じゃないの、と思っていた気もする。でも母は、そういうところを見ていた。生地がいい。仕立てがいい。変なしわが入らない。落ち方がきれい。

    同じ黒でも、同じではない。

    母は本革が好きだった。

    これは本革だね。これはフェイクよ。ほら、触ったらわかるよ。匂ったらわかるよ。そう言って、いろんな見方を教えてくれた。

    今とは少し空気が違う時代だった。フェイクレザーは今ほどよくなくて、選ぶ理由がある素材というより、本革の方がちゃんとして見えるもの、という感じが強かった。フェイクレザーは大人が持っていたら恥ずかしい、という空気もまだあったと思う。

    聞いた時は、へえ、という感じだった。

    でも、そういう目で見てみると、確かに違う。つやが違う。触った感じが違う。少しわざとらしく見えたり、品がなく見えたりするものもある。

    かばんを買う時にも、母はちょいちょい言った。

    それはフェイクだよ。

    別に文句を言われるわけではない。だめと言われるわけでもない。私が、え、かわいいじゃん、と言うと、母は、うん、かわいい。だから買っていいし、持っていい。中学生には全然いい。だけど、私が持つと変でしょ、と言った。

    そんなこと聞いてないのに、と思った。

    でも、そういう言い方だった。

    かわいいことは否定しない。買うことも止めない。ただ、それが何でできているのか、どの年齢で、どんな場面で、どう見えるのかは見る。

    母は、そこを見ていたのだと思う。

    気づくと、私も何かを買う時に、本革かどうかを気にするようになっていた。書いてあっても、書いていなくても、これはどうなんだろうと思って見る。触る。つやを見る。たぶん匂いも少し見ている。

    気づくと姉妹もそうだった。

    だから、やっぱりあれは母の教育だったのだと思う。

    母は、買い物の時だけではなく、テレビを見ている時も、人が着ている服を見た時も、何がいいのかをちょいちょい教えてくれた。

    あの礼服は生地がいいよ。
    あれは仕立てがいいよ。
    ほら、変なしわが入らないでしょ。

    なるほどなあ、と思った。

    全部を覚えているわけではない。母が言ったことの全部が、今の私に残っているわけでもないと思う。でも、大人になってふとした時に、あれはこういうことだったのかもしれない、と思うことがある。

    着物もそうだった。

    子どもに七五三の着物を着せる時、写真館の着物を着せようとすると、母に少し怒られた。母は、そういうところにはちゃんとしたものを着せたい人だった。

    私も、母が子どもの頃に着ていた着物が好きだった。母が実家から持って帰ったその着物は、とても素敵で、もちろん正絹だった。

    七五三で着せると、周りの子どもたちとの違いはすぐにわかった。

    それを気にする人もいるし、気にしない人もいる。最近のデザインの方が好きな人も、もちろんたくさんいると思う。

    でも私は、正絹の着物の、あの落ち着いたつやと、静かな佇まいがとても好きだった。

    母は、孫の七五三に着せる羽織も正絹にこだわった。

    借りたらいいよ、と私は言ったけれど、母はどうしても買うと言った。十万円近くしたと思う。そこまでしなくても、と思ったけれど、母は買った。

    そのあと、母の孫は三人増えて、そのうち二人が女の子だった。

    ほらね、買ってよかったでしょ、と母は言った。

    そういうところが母らしい。

    高いものを買えばいい、という話ではないのだと思う。ブランドものを持てばいい、という話でもない。ただ、ここはちゃんとしたものを選びたい、という場所が母の中にある。

    その線引きを、私はずっと横で見ていた。

    ヨーロッパの古着を買う時も、リサイクルショップで何かを探す時も、普通にお店で買い物をする時も、私は必ず素材を見る。

    本革か。
    シルクか。
    綿か。
    ウールか。
    アルパカか。
    ポリエステルか。

    それが何だ、と言われたら、うまく答えられない。

    それでも、私にとっては大事なことになっている。

    つやを見る。落ち方を見る。触った感じを見る。しわの入り方を見る。そのものが、少し落ち着いているかを見る。

    たぶん、母に教えられた目で見ている。

    それをちゃんと見ないと、母に怒られる気がしているのかもしれない。
    それらを素敵だと思える自分が、少し好きなのかもしれない。

    母は、ものを見る目を教えてくれた。

    そして今も、何かを選ぶ時、私はたぶん、母が見ていたところを少し見ている。

    text — homeflow編集部

  • 組み合わせようと思ったら、宝の山だった。

    homeflow — paper & edit

    年賀状を作るのが、好きだった。

    たぶん、大学生の頃だったと思う。母が、パソコンで年賀状を作っていた。年賀状を作るソフトが入っていて、そこにいろんな絵や文字や素材が入っていた。

    なんだかおもしろそうで、私もなんか作ってみたいと思った。

    最初は、入っている絵をそのまま眺めても、あまりピンとこなかった。きれいなものもあるけれど、そのまま一枚で使いたい感じとは少し違った。

    でも、これって組み合わせられるのかなと思って聞いたら、母が「何でもできるよ」と言った。

    それなら、とりあえずやってみようと思った。

    そこからが、急に楽しくなった。

    普通に眺めている時はそこまで動かなかったのに、組み合わせようと思った途端、全部が素材に見えてきた。単体では通り過ぎていた絵も、何かと重ねたり、小さくしたり、背景を抜いたりすると、急に使えそうに見える。

    当時は、素材が入ったCDをパソコンに入れて、そこから絵を選んでいた。選んだ絵を取り込んで、サイズを変えて、背景を切り抜いて、重ねる。

    それが、とにかくめちゃくちゃ楽しかった。

    戌年の年賀状を作った時は、和のお正月っぽい絵柄の中に、グラフィック的な犬を散歩させている女性の絵を入れた。その女性が、シャネルスーツみたいな服を着ていた気がする。

    ちゃんとお正月らしい背景の中に、急にそういう人がいる。

    しかも犬を散歩させている。

    それがなんか、妙にかわいかった。

    年賀状らしいものは、ちゃんと入っている。お正月らしさもある。けれど、そこに少し違うものを入れると、急に動き出す感じがあった。

    ちゃんとしているのに、ちょっと変。
    お正月らしいのに、少しだけおかしい。
    でも、その方がかわいい。

    そういうところを探すのが好きだった。

    最初に大親友に出したら、すごく褒めてくれた。それで調子に乗って、会社に入ってからも、同じような感じで年賀状を作って出していた。

    会社の人に出す時は、さすがに少し遠慮した。

    あまり変すぎないように、TPOを考えたパターンにした。とはいえ、牛をどーんと入れたりはしていたから、どこまで遠慮できていたのかは少し怪しい。

    でも、いろんな人が褒めてくれた。

    同僚のお母さんが「どうやって作っているのか聞いてきて」と言ってくれたこともあった。奥さんがデザイン関係の知り合いも多いけれど、そのプロたちを除いたら一番いい、と言われたこともある。

    プロたちを除いたら、というところが少しおもしろいけれど、褒めてくれているのはわかった。

    ほかのパターンもあるなら見たい、と言われたこともあった。

    そういうことを言ってもらえるのは、もちろんうれしかった。でも、たぶん一番楽しかったのは、作っている時間だったと思う。

    何をどこに置くか。
    どれを大きくして、どれを小さくするか。
    どこまでお正月らしくして、どこから少し外すか。

    その小さな紙の中で、ずっと組み合わせていた。

    今思うと、服でしていたことと同じだったのかもしれない。

    ちゃんとしたものに、少し違うものを入れる。
    少し真面目なものに、少しふざけたものを足す。
    そのままだと通り過ぎてしまうものを、別のものと合わせてみる。

    すると、急に空気が変わることがある。

    年賀状は、小さな紙だった。

    でも、その中に、背景があって、文字があって、絵があって、余白があった。そこに何を置くかで、全体の感じが変わる。

    ただ素材を選んでいるだけではなくて、たぶん私は、その空気が変わるところを見ていた。

    単体ではそこまで気にならなかったものが、何かと合わせると急にかわいくなる。
    少し変なものを入れると、急に抜ける。
    きれいにまとまりすぎていたものが、少し動き出す。

    それが好きだった。

    今思うと、私は素材を集めていたのではなく、空気を作っていたのかもしれない。

    text — homeflow編集部

  • 服が好きって、言っていいのかなと思っていた。

    homeflow — arrange & eye

    ずっと、服が好きだと思っていた。

    小学生の頃から服が好きで、中学生の頃も、高校生の頃も、大学生の頃も、ずっと服のことを考えていた気がする。何を着るか。何を合わせるか。靴はどうするか。バッグはどうするか。スカーフを巻くか、帽子をかぶるか。

    雑誌を見るのも大好きだった。

    いろんな服が載っていて、いろんなブランドがあって、どこのブランドがどういう感じの服を作るのか、興味のあるところはそれなりに知っていたと思う。知らなかったわけではない。むしろ、そういう情報を仕入れるのはかなり好きだった。

    だから就職活動の時、アパレルも受けようかなと思った。

    でも、その時に少し、あれ、と思った。

    一年先に就職活動をしていた友達が、アパレルを受ける人たちは本当に服が好きな人ばかりだと言っていた。このブランドが大好きですとか、このブランドのここがいいとか、あのデザイナーの時が一番よかったとか、そういう話をみんなでしているらしい。

    それを聞いた時、なんか違うなと思った。

    私は服が好きだった。ブランドも好きだった。雑誌も見ていたし、欲しい服もたくさんあった。でも、どうしてもここを受けたい、というアパレルブランドがあったわけではなかった。ひとつのブランドにはまって、それだけを買いそろえたいわけでもなかった。

    このブランドの世界に入りたい、というより、かわいいものを自分の中に持ってきて、ほかのものと合わせたい。

    たぶん、そっちだった。

    服が好きなのに、なんでだろうと思った。

    結局、アパレルは一社しか受けなかった。その会社は、次の面談についてはまた連絡しますと言って、そのまま連絡をくれなかった。たぶん、私をそんなに欲しいと思っていなかったのだと思うし、私も、いい加減な会社だなと思って、そんなに行きたいとも思わなくなった。

    それで終わった。

    でも、そのあともなんとなく残った。

    私は服が好きなはずなのに、服好きって言っていいのかな、という感じ。服が好きです、と言うには、何かが少し違う気がしていた。

    服も好き。ブランドも好き。雑誌も好き。
    でも、アパレルの人たちと同じ好き方ではない気がした。

    そこがずっと、少しだけ引っかかっていた。

    最近になって、やっと少しわかった気がする。

    私は服が好きだった。
    でも、服だけが好きだったわけではなかったのだと思う。

    でも、それ以上に、これとこれを合わせた時に出る感じが好きだった。服と靴とバッグと布と髪と、その日の自分でできる空気みたいなものが好きだった。

    少し変なものを入れた時に、急に抜ける感じ。
    真面目な服に、少しふざけた布を合わせる感じ。
    かわいいだけだと甘くなるところに、少し違うものを足す感じ。

    そういうものが好きだったのだと思う。

    だから、服屋さんそのものより、古着屋やリサイクルショップの方が楽しかったのかもしれない。きれいに世界観が決まっている場所より、いろんなものが混ざっている場所の方が、何かありそうな気がした。

    いい生地のものもある。少し変なものもある。誰が着るのかわからないようなものもある。その中から、これとこれを合わせたらかわいいかもしれない、と思う。

    そういう時間が好きだった。

    服だけではなかった。

    年賀状を作るのも好きだった。筆ぐるめで、年賀状らしい墨っぽい絵や、日本画っぽい素材の中に、思いっきりデジタルな女の人の絵を入れたりしていた。

    今思うと、あれも同じだったのかもしれない。

    ちゃんと年賀状らしいものに、全然違うものをひとつ入れる。

    それで少し変になる。少しずれる。でも、その方が急にかわいく見えることがある。

    服でも、年賀状でも、家の中のものでも、たぶん私は同じようなことをしている。

    何かと何かを合わせる。
    少し違うものを入れる。
    その時に、空気が少し変わる。

    それが好きだった。

    だから、服が好きって言っていいのかもしれない。だけど、たぶん私は、服そのものだけが好きだったわけではない。

    服を着た時にできる感じ。
    ものを合わせた時に生まれる空気。
    少し変なものが入って、急に力が抜けるところ。

    そういうものが、ずっと好きだった。

    あの頃、服が好きって言っていいのかなと思っていたけれど、今なら少しわかる。

    私は服が好きだった。

    そして、服の中で見ていたものを、今もずっと見ている。

    text — homeflow編集部