投稿者: homeflow_admin

  • 目の端にうつった瞬間、買うと思った。

    homeflow — found & eye

    昔、町の靴屋さんで、赤くて金色の靴を見つけた。靴だったのか、スリッパだったのか、今となっては少し曖昧だけれど、外を歩けるソールだったことは覚えている。赤くて、金色で、何かがついていた。羽だったような気もするし、違ったような気もする。もう手放して長いから、細かい形は思い出せない。

    でも、とにかくめちゃくちゃかわいかったことだけは覚えている。

    目の端に、赤くて金色のものが入った。その時、千円という値段も一緒に見えた気がした。でも、そんなはずないと思った。こんなにかわいいものが、千円なわけがない。私が値段を見間違えたのか、それとも、ちゃんと見たらそこまでかわいくないのか。どちらかだと思った。

    だから、二度見するように、もう一度ちゃんと見た。そしたら、やっぱりかわいかった。むしろ、好みのど真ん中だった。値段も、やっぱり千円だった。

    ほんまなん、と思った。

    絶対、千円でできるものではなかった。二足買いたい、と思った記憶がある。セール品だった。売れ残っていたのだと思う。たぶん、誰が見ても少し変な靴だった。

    その頃は、そういうことが時々あった。今みたいに、古いものや珍しいものの値段が、全部ネットの相場に寄っている感じではなかった。町の靴屋さんや、リサイクルショップや、旅先の店に、価値と値段がちぐはぐなものが、ぽろっと置かれていることがあった。

    それを見つけるのが、すごく好きだった。

    安いから嬉しい、だけではなかったと思う。もちろん安いのは嬉しい。千円の赤と金の靴なんて、嬉しいに決まっている。でも、それだけではなくて、その靴がそこにある感じが好きだった。

    誰かにとっては売れ残りで、誰かにとっては少し変で、町の靴屋さんの端にぽんと置かれている。けれど、私にはそれが、目の端に入った瞬間に光って見える。

    その感じが好きだった。

    今の旦那と、まだ付き合う前だったと思う。デートにその靴を履いていったら、「なんやその靴」と言われた。たぶん、誰が見てもそういう靴だったのだと思う。

    でも、私はそれがかわいかった。かわいくて、ほんとうによく履いていた。毎日のように履いていた気がする。

    もう手元にはない。いつ手放したのかも、どうして手放したのかも、あまり覚えていない。あれだけ好きだったのに、形も少し曖昧になっている。

    それでも、その瞬間の感じは残っている。目の端に赤くて金色のものが入ったこと。千円という値段も一緒に見えたこと。そんなはずない、と思ったこと。ちゃんと見たら、やっぱりかわいくて、やっぱり千円だったこと。

    今の買い物は、少し正しすぎる。

    ネットを見れば、だいたいの値段がわかる。古いものにも、珍しいものにも、相場がある。便利ではあるけれど、ぽろっと変な価格で置かれている感じは少なくなった。

    あの頃は、もう少しちぐはぐだった。価値と値段が、ぴったり合っていないものがあった。誰かにはいらないものが、私にはものすごくかわいく見えることがあった。店の端に残っていたものが、急に光って見えることがあった。

    最近好きなものについて書いているけれど、探しているものは昔からあまり変わっていないのかもしれない。

    少し変で、少し売れ残っていて、でも目の端に入った瞬間に光るもの。きれいに選ばれた正解のものより、混ざった場所の中に、ぽろっと置かれているもの。

    目の端にうつった瞬間に、あ、これだ、と思う。

    その感じを、今でもよく覚えている。

    text — homeflow編集部

  • おしゃれになってやろう、と思った。

    homeflow — clothes & eye

    小学生の頃から、服が好きだった。

    たぶん、始まりは母のひと言だったと思う。二年生くらいの頃、適当に服を着ていたら、母に「ストライプとストライプは、おしゃれ上級者がやる組み合わせだよ」と言われた。

    なんだって、と思った。

    よくわからないけれど、それなら私はおしゃれな人になってやろう、と思った記憶がある。

    高学年になると、いとこにもらった大人の服を着ていた。子ども服ではないから、サイズも形も少し変だったと思う。でも、それを別の服と合わせると、急に少し素敵になることがあった。

    それが面白かった。

    “ちゃんと”かわいい服を着ることより、少し変なものを合わせた時に、ふっと空気が変わる感じが好きだったのかもしれない。

    中学生の頃は、自分のスタイルがよく見える服を着ていた。高校生の頃は、当時流行っていたストリートっぽい服。大学生になると、そこにバッグや靴、布、スカーフ、ショール、アクセサリー、帽子が入ってきた。

    服を選んでいるようで、たぶん全体を見ていた。

    靴を合わせる。バッグを選ぶ。布を巻く。帽子を足す。最後に、少しだけ違うものを入れる。

    それで急に、かわいくなることがある。

    古着も好きだった。

    おしゃれな古着屋だけではなくて、普通のリサイクルショップにもよく行っていた。今よりずっと、セカンドハンドの価値が低かった頃で、そういう場所には本当にいろいろなものが混ざっていた。

    いい生地の服もあったし、少し変な服もあった。てろんてろんのパンツみたいなものもあった。

    良いものだけを探していたわけではない。

    もちろん、いい生地のものは好きだった。麻のスカートに手刺繍がしてあったり、手編みのセーターがあったり、革の靴があったりすると、かなりうれしかった。

    でも、それだけで全部をまとめたいわけでもなかった。

    いいものだけだと、少し真面目になる。かわいいものだけだと、少し甘くなる。古いものだけだと、少し重くなる。

    そこに、少し違うものを足したくなる。

    たとえば、てろんとした古着のパンツに、ピンクのにこちゃんがたくさんついたスカーフを頭に巻いたりしていた。

    別に、それがなくてもかわいい。そのままでも、たぶん成立している。

    でも巻くと、少しだけズレる。少しだけ力が抜ける。少しだけ面白くなる。

    ぶっ飛んでいる人になりたいわけではない。奇抜にしたいわけでもない。ただ、その少しのズレで、急にかわいくなることがある。

    そういうことが、たぶん好きだった。

    母はよく、「ものがいいね」と言っていた。

    本革、綿、シルク、真珠。これは本物、これはフェイク。私はそういうものに特別興味があったわけではないけれど、母が「これはいいやつだね」と言うことがたまにあった。

    そういう見方は、おばあちゃん譲りだと母は言っていた。

    当時はよくわからなかったけれど、服を見ながら、少しずつ素材を見るようになったのだと思う。値段やブランド名だけではなく、手触りや生地や、そのものが持っている感じを見ること。

    バイト代で高い服も買っていた。ハイブランドというより、その時の自分にとって大事だった服。Tシャツ一枚に一万円くらい出していたこともある。今より物価が安かった頃だから、なかなかだなと思う。

    でも、その中で、革のよさや、綿のよさや、シルクのよさを少しずつ覚えた。刺繍のかわいさも、手編みのセーターのよさも、古着の中に紛れているいいものを見つける楽しさも覚えた。

    服が好きだった。

    でも、服だけを見ていたわけではなかったのかもしれない。

    素材の感じ。
    色の重さ。
    少し変なものが入った時の抜け。
    最後に何を足すと、急にかわいくなるのか。

    そういうものを、服で覚えていた気がする。

    最近好きなものについて書いているけれど、探しているものは昔からあまり変わっていないのかもしれない。

    おしゃれになってやろう、と思ったあの頃から、たぶんあまり変わらないところを見ている。

    text — homeflow編集部

  • 片方ずつ違うのに、ちゃんと一組だった。

    homeflow — socks & memory

    昔、ポップアップストアのような場所で靴下を買った。

    片方ずつ柄が違う靴下で、左右はまったく同じじゃない。なのに、なんとなくセットだとわかる。完全に揃っているわけではないのに、空気としてはちゃんと一組になっている感じがあった。

    お店には、そういう靴下がいくつか並んでいた。どれも少しずつ違っていて、でもバラバラすぎるわけではない。ゆるくつながっている。その中から、これがいいなと思うものを選んだ。

    あの感じが、すごく好きだった。

    ブランド名も、どこで買ったのかも、もう覚えていない。同じものをもう一度欲しいけれど、探しきれない。もうないのかもしれない。

    その靴下は、穴があいても捨てられなかった。

    もう履けないのに、捨てるには惜しくて、しばらく取っておいた。高かったからでも、便利だったからでもなくて、左右が違うのにちゃんと一組だった、その感じが好きだったんだと思う。

    買った時に、カレンダーのような、ポスターのような紙をもらった。

    ポスターの中に、カレンダーが小さく入っているようなもの。絵がものすごく好きというより、その靴下を買った時の空気ごと残っている感じがして、なんかかわいくて、ずっと貼っている。

    今は、トイレの窓辺にある。古い木の額を窓に立てかけて、その奥側、窓とのあいだに貼っている。

    靴下はもうないのに、その時にもらった紙だけが、まだそこにある。

    日付を見るためのものではないし、特別に大事な絵というわけでもない。でも見ると、あの靴下のことを少し思い出す。

    片方ずつ違うのに、ちゃんと一組だったこと。

    同じじゃないのに、なぜか合っていたこと。

    そういうものが、やっぱり好きなんだと思う。

    もう買えないかもしれないけれど、まだ好きなままでいる。

    text — homeflow編集部

  • 額は、窓とのあいだに小さな場所をつくる。

    homeflow — frame & space

    トイレに、古い木の額がある。

    きちんと壁に掛けているわけではなくて、窓のところに少し斜めに立てかけている。木の縁に厚みがあって、平たい枠とは違う影ができる。

    その斜めの隙間が、ちょうどいい。

    額と窓のあいだに、少しだけ場所ができる。そこにカレンダーを貼って、小さな花瓶を置いて、顔の置物も置いている。

    カレンダーは、今年のものではない。たぶん三年くらい前のもの。日付を見るためではなくて、絵が気に入っていて、そのまま貼っている。

    そういうところが、うちっぽいなと思う。

    顔の置物は、中におみくじが入っているタイプのもの。少し変で、茶目っ気がある。古い木の額の奥に、三年前くらいのカレンダーと、小さな花瓶と、顔がいる。

    ちゃんと飾っているというより、なんかそこに集まってしまった感じに近い。

    でも、窓に立てかけているから、光が入る。

    木の厚みのところに影ができて、カレンダーの絵が少し明るくなって、置物の顔も、なんとなくそこにいていい感じになる。

    額は、絵を入れるためのものだと思っていたけれど、うちのトイレでは少し違う。

    中に何かを入れて完成するというより、窓とのあいだに小さな場所をつくっている。奥行きができて、光が入って、ものが少しだけ居場所をもらう。

    ただの窓辺だったところに、小さな場所ができる。

    それが好きなのかもしれない。

    トイレだし、カレンダーは何年も前のものだし、顔の置物もいる。きれいに飾っています、という感じでは全然ない。

    でも、古い木の厚みと、窓から入る光と、少し変なものが混ざっていると、空気がすっと抜ける。

    額は、何かを囲うものでもあるけれど、窓とのあいだに小さな場所をつくるものでもある。

    うちではたぶん、そのくらいの役割がちょうどいい。

    text — homeflow編集部

  • 藍色の風呂敷は、布のままがいい。

    homeflow — cloth & use

    風呂敷が好きだ。

    なかでも好きなのは、おじいちゃんちにあった藍色の風呂敷。綿の、しっかりした布で、濃い紺というより藍色。稲の絵が入っていて、なんとか農業組合みたいな文字も入っている。

    なんかいいよね、あれ。

    たぶん粗品のようなものだったのだと思う。洒落た風呂敷というより、いかにも実用です、という顔をしている。でも、その感じがとてもいい。

    色と素材がちょうどいい。藍色の綿に、稲の絵と農業組合の文字。まじめなのに、ちょっと茶目っ気に見える。きれいにしようとしていないのに、ちゃんといい。

    風呂敷は、旅行にもよく持っていく。服を包んで、カバンやスーツケースに入れる。結び目をほどいて広げると、中身が全部見える。どこに何があるか、ぱっとわかるのがいい。

    結べば袋みたいにもなるし、クローゼットに引っ掛けることもできる。いらないときは、たたんでしまえる。何なら、スカーフがわりにもなる。

    そういうところも好きだ。使っているうちに、やっぱり風呂敷っていいなと思う。

    でも、便利というより、風呂敷は布のままなのがいい。包むものにもなるし、袋にもなるし、敷くものにもなる。使わないときは、また布に戻る。

    あの藍色の風呂敷は、その感じがよく似合う。

    実用的なのに、味気なくない。きれいなのに、飾りすぎていない。ちょっと粗品っぽいところまで含めて、なんか好きだ。

    包んで、ほどいて、広げて、またたたむ。

    風呂敷は、布のままがいい。

    text — homeflow編集部

  • 漆器は、少し改まるくらいがいい。

    homeflow — lacquer & table

    漆器が好きだ。お椀を買うなら、基本的には漆器のものを選びたいと思っている。

    実家にも、とても好きな漆器のお椀がある。高台がついた浅いお椀で、蓋もついている。お正月に出てくるもので、普段からどんどん使うものではない。食卓に出ると、それだけで少しお正月らしい空気になる。

    祖父の家にあった漆器は、もう残っていないらしい。だから母が、セカンドハンドで見つけてきたものだったと思う。もともと家にあったものではないけれど、そのお椀はちゃんと実家のお正月に合っている。浅くて、蓋があって、高台があって、少しだけ背筋が伸びる。でも、緊張するほどではない。

    漆器には、そういうところがある。立派に見せるというより、少しだけ場を改める。

    うちにある漆器は、もう少し普段使いのものだ。だめになったら、たぶん買い替えるしかない。ずっとしまっておくものではなくて、日々の食器棚に普通に入っている。それでも、お椀はできれば漆器がいい。汁ものを入れたときの感じや、手に持ったときの軽さや、口をつけるところのやわらかさが、やっぱりいい。

    とはいっても、きれいにそろえた高いものを買っているわけではない。セカンドハンドや蚤の市で、安くて、でもなんかいいものを見つけるのが好きだ。少し擦れていてもいいし、古くてもいい。でも、なんでもいいわけではない。手に取ったときに、すっと入ってくるものがいい。

    朱色の、大きい菓子皿みたいなものもある。深い赤というか、朱色というか、なんともきれいな色で、少しだけ金の細工が入っている。たくさん金があるわけではなくて、さらりとある。そのくらいが好きだ。何かをのせると、普通のものでも少し違って見える。きちんと盛りつけました、というほどではない。けれど、ただ置いただけでも少し整う。

    基本的には朱色が好きだ。深い赤の中に、少し暗さがある感じがいい。明るすぎず、でも沈みすぎない。食卓に置くと、そこだけ温度が少し上がる。けれど黒でも赤でも、感じが合えば買うと思う。色で決めているようで、最後はフィーリングで見ている。

    重箱も、いつか漆器のものがほしい。お盆もほしい。でも、そんなにすごく出番があるわけではないから、急いではいない。いいものがあれば、という感じで、少しずつ機をうかがっている。今すぐ必要ではない。でも、いつかちょうどいいものに会ったら、たぶん買う。

    漆器は、普段の中に少し改まった感じを入れてくれる。お正月の実家のお椀も、うちの食器棚にある普段使いのお椀も、朱色の大きな皿も、それぞれ少しずつ違う。でも、どれも食卓の空気を少し変える。

    漆器は、少し改まる。でも、改まりすぎない。そのくらいが、うちにはちょうどいい。

    text — homeflow編集部

  • 透けるほど薄いカップを、いつか引き継ぎたい。

    homeflow — cup & light

    実家に、母が大事にしているカップがある。

    祖母の家から来たものらしい。

    祖母が亡くなってしばらくしてから、母はそのカップを二客だけ持って帰ってきた。たくさんあったはずなのに、遠慮して二客だけ。

    その二客が、今も実家にある。

    はじめて見たとき、まず薄さにびっくりした。

    たぶん、ボーンチャイナなんだと思う。でも、素材は正直なんでもいい。

    光にかざすと、向こうが透ける。
    カップなのに、向こうが見える。
    そんなことがあるのかと思った。

    柄もある。

    少しだけ金の細工があって、何かの絵も入っている。でも、いちばんは薄さだ。

    薄いから、きれい。
    薄いから、少しこわい。

    持つと、壊してしまいそうな気がする。洗うのもこわい。使うものなのに、使うのに少し気をつかう。

    でも、そこがいい。

    母も、そのカップがとても好き。

    二客だけ持って帰ってきたところに、母らしさがある気がする。欲しかったけれど、全部は持って帰らなかった。大事だったけれど、少し遠慮した。

    だから余計に、その二客が静かに見える。

    私もいつか、そのカップを引き継ぎたいと思っている。

    母が大事にしている間は、母のものだ。
    今すぐ欲しいわけではない。もらいたいわけでもない。

    いつか、そのあとで、私のところに来たらいいと思っている。

    たぶん、私もあまり使えない。

    壊しそうで、棚にしまってしまうかもしれない。たまに出して、光にかざして、やっぱり薄いなと思うくらいかもしれない。

    それでもいい。

    あの薄さを、知っている人でいたい。

    母が好きだったものを、私も好きだと思ったこと。祖母の家から、母の手元に二客だけ来たこと。光にかざしたら、向こうが透けて見えたこと。

    そういうものごとを、いつか一緒に引き継ぎたい。

    透けるほど薄いカップが、実家に二客ある。

    今はまだ、母の棚の中にある。

    text — homeflow編集部

  • 置きたかったガラス瓶が、少し違って見えた。

    homeflow — glass & place

    ずいぶん前、大きなガラス瓶を玄関に置きたいと思っていた。

    丸くて、大きくて、少し古いもの。アンティークというか、古道具というか、前にどこかで使われていたような気配があるガラス瓶。

    小さな花瓶ではなく、大きい瓶がよかった。玄関に、どんと置きたかった。

    つるんと新しい花瓶ではなくて、少しゆがみがあったり、小さな気泡が入っていたりするものがよかった。光がまっすぐ抜けすぎず、瓶のあたりに少したまる。透明なのに、そこだけ空気が少し厚くなるような感じがした。

    そこに、季節のものを挿したかった。

    春先なら梅。その次は桜。花が終わったら葉もの。秋口にはススキをしばらく挿しておく。
    きれいに花を飾りました、というより、外の季節が少し家に入ってくる感じがよかった。

    冬は何がいいだろう。枝ものもいいし、赤い実もいい。みかんを入れてもかわいいかもしれない。でも、みかんはたぶん食べる。

    そんなことまで含めて、昔の私はかなり好きだったのだと思う。

    でも今、本当にそれを置くかと言われたら、少し違う気がしている。
    場所のこともある。子どものこともある。大きな瓶を玄関に置いたら、ぶつかるかもしれないし、倒れるかもしれない。水も入るし、枝も入る。たぶん、今の家では気にすることが増える。

    前に住んでいた古い社宅なら、今でも少し合ったかもしれない。玄関の少し暗い感じや、古い建具や、どこか余白のある空気の中なら、丸い古いガラス瓶は、もう少し自然にそこにいられた気がする。

    だから、ガラス瓶が嫌いになったわけではない。あの瓶を置きたかった気持ちも、まだ少しわかる。

    でも、それだけでもない。

    今あらためて想像してみると、昔ほど胸が動かなかった。
    古いガラス瓶。玄関。季節の枝。気泡の入ったガラスに、光がたまる感じ。

    どれも好きなはずなのに、そのまま今の家に持ってきたい感じがしない。

    今も、そういう景色が好きな人の家にあったら、きっと素敵だと思う。でも、自分の家に置くところまで想像すると、少し止まる。

    昔好きだったものが、今の自分には少し合わなくなることがある。嫌いになったわけではない。趣味が悪かったとも思わない。ただ、そのまま今の家に持ってくると、少し違う。

    たぶん私は、ガラス瓶そのものだけではなく、瓶のまわりに光がたまる感じが好きだったと思う。

    季節が少し家に入ってくる感じも好きだった。古いものなのに、ガラスだから空気が重くならないところも好きだった。

    そこは、今も好きだ。

    でも、大きな瓶を玄関にどんと置くことは、今の私には少し違う。

    大きな古いガラス瓶を置きたかったことがある。その気持ちは、今もわかる。

    でも今は、たぶん置かない。

    瓶そのものより、光が少したまる場所の方を、私はまだ探しているのだと思う。

    text — homeflow編集部

  • 青い火は、まだしまってある。

    homeflow — fire & waiting

    アラジンのストーブが好きだ。

    冬の朝、部屋はまだ冷えている。

    小さくなって震えながら、夫がストーブに火をつける。その姿が、ちょっとかわいかった。

    火がつくと、青い炎がゆらゆらする。
    部屋が一気に暖かくなるわけではない。最初はまだ寒い。毛布にくるまって、ストーブの前でコーヒーを飲む。ぼーっと炎を見る。

    青い火は、静かに揺れている。
    気づいたら、家の空気が少しやわらかくなっている。ほんわか、ゆらゆら、ゆっくり温まっていく。
    アラジンは、そこがいい。

    ストーブの上で料理ができるような道具もあるらしい。そういうことを考えるだけで、少し楽しい。冬の朝に、ストーブの上で何かが温まっているなんて、夢みたいだと思う。

    でも、たぶん、そういうのが一番危ない。
    火がある。熱がある。そこが好きなのに、そこが今は少しこわい。

    だから今は、出していない。
    子どもたちは走るし、近づくし、何をするかわからない。青い火をゆっくり眺めるには、まだ少し早い。

    アラジンのストーブは、しまってある。

    嫌いになったわけではない。いらなくなったわけでもない。好きなまま、今の暮らしの表には出ていない。

    いつかまた、子どもたちと一緒にその時間を楽しめるようになったら、出してみたい。
    青い火を見ながら、毛布にくるまって、何か温かいものを飲む。そんな冬の朝が来たらいいなと思う。

    でも、その頃にはきっと、今のガチャガチャした楽しさは少し落ち着いている。

    そうじゃないと困るけれど、そうなっていたら、それはそれで少しさみしい。

    今はまだ、アラジンのストーブはしまってある。

    青い火も、その前でぼーっとする時間も、少し先の冬に置いてある。

    text — homeflow編集部

  • 椅子は、一脚ずつ違うのがいい。

    homeflow — room & chairs

    椅子が好きだ。

    きれいに揃った椅子より、一脚ずつ違う椅子がある方が好きなのかもしれない。背もたれの線が違う。座面の色が違う。木の色も、少しずつ違う。

    そういうのを見ると、なんかいいなと思う。

    うちのダイニングの椅子も、きれいには揃っていない。

    アーコールの椅子は、大好きで買った。全部を同じ形で揃えたわけではなくて、二種類を一脚ずつ。計二脚だけ。

    おじいちゃんちから持って帰った椅子もある。母の世代の、勉強机に合わせて使っていたような古い椅子。座面は、自分で張り替えた。トルコで買ったクッションを張った。

    古い椅子に、遠い国の布がのっている。そのちぐはぐさが、すごく好きだった。

    でも今は、脚がぐらぐらしている。直さないと座れない。お気に入りなのに、お直し待ちのまま、使えていない。

    子ども用に買ったバランスイージーもある。ダイニングに、少しリズムが出る。IKEAの丸椅子は、脚の色がかわいくて、軽くて、ちょっと座れる。立派すぎないところもいい。

    そうやって見ると、うちの椅子は、最初からきれいに揃えるつもりがあまりなかったのかもしれない。

    選んで買った椅子。持って帰ってきた椅子。張り替えた椅子。子どものために買った椅子。軽くて便利で、でも色がかわいい椅子。

    どれも、少しずつ違う。

    リビング側にも、好きな椅子がある。

    もらいものの、カリモクの一人掛けソファ。今は、二階に避難している。

    学生の頃、代官山で見つけた椅子もある。白い椅子で、座面が朱色だった。あの椅子が本当に好きだった。それも今は、倉庫に眠っている。

    好きで手元にあるのに、今の家の表には出ていない椅子がある。二階にある椅子。倉庫にある椅子。直さないと座れない椅子。

    少し悲しいけれど、好きじゃなくなったわけではない。

    今のリビングには、長いソファがある。みんなが座れて、寝転べて、子どもがくっついてきても大丈夫で、今の家にはちゃんと合っている。

    長いソファも好きだ。

    でも、その奥に、いろんな椅子を置きたい気持ちがある。

    一脚ずつ違う椅子が、部屋のあちこちにある。そこに誰かが座ったり、座らなかったりする。座れる椅子も、まだ座れない椅子も、今は出せていない椅子もある。

    きれいに揃っていないけれど、なんとなく一緒にいる。

    私はたぶん、そういう椅子のある部屋が好きなのだと思う。

    text — homeflow編集部