カテゴリー: 空気

  • 好きな器の話。

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    バルセロナの蚤の市で、白い大皿を買った。サタルニア系の、少し業務用っぽい白いお皿で、大皿、ステーキ皿、取り皿。重たかったけど値切って、「まぁいっか!」で旦那に持って帰ってもらった。今、すごくウキウキ使っている。

    日本の柄の入った焼き物も好きだ。沖縄で買ったやちむん、宮島をぶらぶらしていた時にたまたま見かけた色鍋島みたいな綺麗なお皿、京都の陶器市で買った薄紫の陶器の器。系統だけ見ると、バルセロナで買った無骨な白い皿と全然違う。でも、並べると、なんとなく落ち着く。

    たぶん、「同じテイスト」で好きなんじゃなく、同じ空気が流れているものを好きになっている気がする。少し揺れていて、整いすぎていない。生活へ混ざった時に、空気が少しやわらかくなる感じ。そういうものへ、なんとなく惹かれているんだと思う。

    そのものの空気感が一番だけど、どこで出会ったかも、少しだけ器の空気に混ざっている気がする。使う時に、その場所の感じや、歩いていた時の空気が、ふわっと一緒に出てくることがある。旅の思い出を飾りたいわけではない。でも、生活の中でそういうものがふっと立ち上がる感じが、なんか好きだ。

    好きな器は、同じシリーズでも同じテイストでもない。でも使っているうちに、少しずつ家の空気へ混ざっていく。そういう器が、なんか好きなんだと思う。

    text — homeflow編集部

  • 木のトレーは、少し時間をゆっくりにする。

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    一人のお昼ご飯の時、木のトレーにご飯と飲み物を乗せて、ソファへ持っていく時間が好きだ。それだけのことなんだけど、少しだけ時間がゆっくりになる感じがする。子どもがいる時はやらない。真似されるし、危ないし、ゆっくりどころじゃなくなるから。だから、一人の昼だけ。

    ガラスを乗せると、特に抜けが良くなる感じがして、少し空気が静かになる。木とガラスの組み合わせが、なんか好きだ。同じ木のトレーでも、なんとなく「こっちへ乗せたい」と思うものがある。うまく説明できないけど、なんか好き。

    子どものおやつを木のトレーへ置いておくこともある。帰ったら嬉しいかな、と思って。でも帰宅すると、食べ散らかしたお菓子の袋と菓子クズがそのまま乗っていて、少し悲しい気持ちになることがある。だから、たまにしかしない。

    パンを並べる時も、木のトレーが好きだった。好きなの取ってね、みたいな感じで。でも子どもが大きくなると、サイズが全然足りなくなって、最近は大皿ばかり使っている。木の温かい感じは今も好きなんだけどな、と思いながら、最近は棚に並べている。

    使っていない時も、なんとなく雰囲気がある。立てていても、重ねていても、そこにあるだけで少し空気がやわらかくなる感じがする。飾っているわけではなくて、ただそこにある。木って、そういう感じがする。

    時間をゆっくりにするものが、家の中にあるといい。木のトレーは、自分にとってそういうものだと思う。菓子クズが乗っていても、なんか好きだ。

    text — homeflow編集部

  • 透明なコップは、少し空気を変える。

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    ボデガへ飲み物を入れるだけで、少し空気が変わる感じがする。お茶でも、牛乳でも、アイスでも。透明なガラスへ入れると、何でも少し素敵になる。それだけのことなんだけど、なんかそれが好きだ。

    ボデガは、少し無骨なのに、生活へ自然に混ざる感じがいい。SサイズとMサイズ、両方ある。旦那には「そんな小さいコップで何飲むん?」と言われるけど、その小ささがかわいくて、Sの方が特に好きだ。

    ボルミオリロッコのステム付きグラスも、IKEAのステム付きグラスも好きだ。飲み物の色がステムへ少し透けて、光が下へ落ちる感じが、なんとも言えない。水でも、ジュースでも、ステムの中で少し揺れる。それだけで、テーブルの空気がちょっと変わる。

    ボデガを見つける前に、もっと好きだったグラスがあった。少しだけ揺れたガラスで、カラフェと一緒に木のトレーへ載せる時間が好きだった。でも割れてしまって、同じものはもう見つからなかった。ガラスは割れる。何個も割ってきた。でも、その繊細さも含めて、ガラスの良さなのかもしれない、と思うようにしている。

    氷を入れると綺麗だけど、氷の光は少し雑音に感じる時もある。どちらかというと、氷なしの静かな透明感の方へ、少しうっとりする。ガラスの中で、飲み物がただそこにある感じ。それが好きだ。

    透明なコップひとつで、少し空気が変わる。大げさじゃなく、ただそういうことが、なんか好きだ。

    text — homeflow編集部

  • うちには、”途中のもの”が多い。

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    片付いていない、というわけではない。役目が終わったと思ったものは、処分している。でも、家の中にはずっと、”まだ時間が終わっていないもの”が残っている。

    子どもの年齢差が少しあるから、一度役目が終わったと思った服やおもちゃが、また生活へ戻ってくることがある。小さくなった制服も、下の子が着る流れがまだ続いているから、手放せない。水着も、伸びて着られないものもあるけど、意外とまだ使えるものがある。洋服もそうだ。「また使うかも」とは少し違う。流れがまだ続いているから、今は動かせない、という感じに近い。

    絵の具道具、裁縫道具、クレヨン、体操服。完全に終わった感じがまだしない学用品が、外の物置や、二階の押し入れや、クローゼットの中に、静かに積み重なっている。捨てられないのではなくて、まだ終わっていない。その違いが、自分の中ではけっこう大きい。

    だから家の中には、違う時間が同時に流れている感じがする。少し前の時間のものと、今のものと、これからまた戻ってくるかもしれないものが、ひとつの家に重なっている。完成した家というより、いろんな時間が少しずつ動き続けている家だ。

    整理したい気持ちはある。でも、まだ終わっていない流れを、無理に終わらせたくない。時間が終わったものは手放せる。途中のものを片付けることは、少し違う気がしている。

    途中のものが多い家、というのは、生活が長く流れている家なのかもしれない。ごちゃごちゃが好きなわけではない。でも、家の中でいろんな時間が重なっている感じは、悪くないと思っている。

    text — homeflow編集部

  • ガラスが好き。

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    小さい頃、ビー玉とおはじきが無性に好きだった。みんな好きだと思っていたけれど、好きな理由が少し違ったのかもしれない。色とか、透け感とか、飴みたいな光とか。そういうものにずっと惹かれていた。

    おばあちゃんちに古いガラス器があった。蔵に入っていたものを出してきて、綺麗に洗うと、急に光が戻る感じがした。完璧に透明なものより、少し歪んで、手作り感のあるあたたかい光のものが好きだった。今も、そっちが好きだ。

    昔住んでいた社宅に、木製建具とゆらゆらガラスの窓があった。取り壊しのとき、本気でもらおうと思った。でも当時は、リフォーム済み中古を買った直後で、生活へ戻す場所がなかった。今でも少し惜しい、と思うことがある。

    セカンドハンドで買ったガラスも好きだし、フルッタグラスも、ボルミオリロッコのボデガも好きだし、IKEAの少し無骨な脚付きグラスも好きだ。アンティークだから好きなわけでも、古いもの限定でもない。工業製品でも、好きなガラスはたくさんある。

    歴史的価値が好きなわけでもない。たぶん、ガラスそのものより、ガラスで変わる空気が好きなんだと思う。光が溜まる感じ、少し歪む視界、生活へ混ざっていく透明感。

    その辺の瓶を花瓶にする感じが好きで、ときどき「あ、これにお花さしたら素敵」と思う。漁船にありそうな大きいガラス瓶も昔から大好きだ。

    飾るためより、暮らしの中へ戻したい。生活に耐えるガラスが好きで、使われているガラスが好きだ。光がゆらっと回って、生活の空気に少し混ざっている感じ。なんか好きなんよね、という感じで、ずっとガラスへ戻ってくる。

    text — homeflow編集部

  • 片付けたいというより、流れを止めたくない。

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    「片付けて!」は毎日言っている。 普通に怒る。 でも怒りながら、頭の片側でなんか考えてしまう。 ランドセル、宿題終わるまで戻したくないよね、とか。 戻す場所、そこじゃないよね、とか。

    だらしないとばかり思っているわけでもなく。 「なんでここで止まるんだろう」が気になる。 流れが詰まる場所には、だいたい理由がある。 戻す場所がない、戻しにくい、途中だから戻せない。 そういうことが多い気がする。

    居場所のないものが増えると、空気が止まる感じがする。 ストック、季節服、床置きのプリント、途中の洗濯。 一個一個は大したことじゃない。 でも、漂流しているものが視界に積み重なると、 息苦しくなる。 散らかりへの苛立ちではなくて、 流れが詰まっている感じへの苦しさだと思う。

    掃除は普通に苦手だし、家事が得意なわけでもない。 でも、「空気が止まる感覚」にはかなり敏感で、 だから収納も、見た目より流れで考えてしまう。 籠が増えるのも、オープンラックにするのも、 戻す場所を作りたい、という感覚からきている気がする。 「ここに戻せる」が一箇所あるだけで、 流れがだいぶ変わる。

    綺麗にしたいというより、詰まらせたくない。 片付けたいというより、流れを止めたくない。 たぶん、ずっとそういう感覚で家を動かしている。

    text — homeflow編集部

  • なんか、籠に入れたくなる。

    homeflow — space & air

    気づいたら、家中に籠がある。 ソファ下の籠、おもちゃの籠、保育園準備の籠、 洗剤ストックの籠、パントリー代わりの籠、子ども服の籠。 数えたことはないけど、たぶんかなりある。 なんでこんなに籠なんだろう、と思うことがある。

    子どもの頃から、おばあちゃんちの籠が好きだった。 何に使うわけでもないのに、なんか気になる。 かわいいとか、便利とか、そういう前に、 ただなんか、好きだった。

    既製品の”ザ・食器収納”みたいな家具が、昔から苦手だった。 食器棚を置くくらいなら、白いオープンラックがいい。 そこへ籠を置けば十分じゃないか、と思っていた。 最初は「いつでも入れ替えられる仮収納」のつもりだった。 でも、なんかしっくりきてしまった。 引っ越しでも結局持っていく。 気づけば、オープンラックと籠のセットが ずっと家にある。

    籠が好きな理由を考えると、 「収納できる」より先に、 視界が少し落ち着く、という感覚がある気がする。 ラベルや色や途中のものを、少しだけ逃がしたい。 完全に閉じたいわけではない。 扉の向こうへ消したいわけでもない。 オープンラックに籠が置いてある、くらいの”抜け”が、 ちょうどいい。

    漂流しているものを、一旦戻せる場所。 空気を少し休ませる場所。 収納というより、たぶんそういうものとして 使っているんだと思う。

    完成された収納というより、 生活と一緒に動いている感じがする。 中身は変わっても、籠はずっとそこにある。 なんか好きなんよね、という感じで、 結局ずっと、籠へ戻ってくる。

    text — homeflow編集部

  • キッチンから、ずっと生活の音がしていた。

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    実家は、静かな家ではなかった。 隣に保育園があって、近くに小学校もあって、 昼は子どもの声がかなり普通に聞こえた。 週末はグラウンドの野球部の声も届いた。 静かな田舎というより、人が暮らしている音が 外からも中からも混ざっている家だった。

    季節の音もあった。 夏の朝はヒグラシで、春先のウグイスは毎年どこか下手で、 秋はキリギリスと鈴虫が重なって、 朝方はキジがうるさかった。 冬は庭のミカンを巡って鳥が喧嘩していた。 父と母の喧嘩も、普通にあった。 全部が心地いい音だったわけじゃない。 でも、家のどこかで、ずっと何かが動いていた。

    普段は鳥の声に起こされる家なのに、学生の頃、週末に昼まで寝ていると、 2階ホールのミシンの音がしてくる。 「起きなさい」ではなく、母が普通に生活を始めている。 しびれを切らして、ミシンを踏み始めた感じ。 掃除機も昔から少し苦手で、 始まった瞬間に「あ、起きなきゃ」となる感じがあった。 掃除機の音は母も少し不機嫌だったんだと思う。いつもの生活が流れ始めている音だった。

    キッチンには、いつも母がいた。 鍋の音、水の音、包丁の音、冷蔵庫の開く音。 昨日の魚のアラで出汁をとって、 出汁がらを味噌と和えて、 骨付き肉からスープをとる。 ずっと何かを仕込んでいる感じで、 台所の音が、家の底に流れていた。 音と匂いが混ざって、 それが”暮らしている空気”になっていた。

    今は子どもたちの声が全部かき消している。 外の音も台所の音も、たぶん聞こえていない。 それでも、生活の音がどこかで流れている家にいると、 安心する感覚が自分にはある。 止まっていない感じ、というか。 家が生きている感じ、というか。

    実家で育った時間が、 そういう感覚のルーツになっているのかもしれない。 静けさより、流れている生活の方を、 ずっと家として覚えている。

    text — homeflow編集部

  • 割れたものを、すぐ終わらせられない。

    homeflow — thing & time

    お気に入りの器が割れると、悲しい。 でも、捨てられない。 金継ぎという選択肢を知ってから、 その「捨てられない」の感じが少し変わった気がする。

    パカっと綺麗に割れると、 「継ぎやすそうで、ありがたい」と少し思う。 細かく砕けても、「いい感じの線になるかもしれない」と考えている自分がいる。 完全な失敗として見なくなった、というか、 割れた瞬間から、次の景色を少し想像するようになった。

    でも、すぐ直すほどちゃんとしていない。 割れた器がしばらく生活に混ざっている。 気づくと、お気に入りだった欠けたものが少しずつ溜まっている。 欠けたままのマグカップ、ヒビの入ったお皿。 捨てるには惜しくて、でも途中のまま、そこにある。

    金継ぎには、乾燥の工程がある。 ただ乾かすのではなく、少し湿気が必要で、 ダンボールの中に器を入れて、水を入れたコップを一緒に置いたりする。 そのコップを湿気用に入れたまま忘れて、 「なんかコップ少ないな」と思っていたら、 ダンボールの中に入っていたことがある。

    途中で、普通に忘れる。 思い出した頃に「あ、次の工程やろう」と少し進む。 完成まで年単位になることもある。

    目指しているのは、完成した姿の方だ。 欠けやヒビが景色になって、また生活の中で使えるようになること。 飾るだけの作品にしたいわけではなくて、 普通にそのへんで使いたい。 お気に入りだから、また手に取りたい。 そっちの方が、ずっと嬉しい。

    ただ、金継ぎした器は電子レンジが使えなかったり、 少し扱いが変わる。 「好きだけど、前みたいには使えない」という距離感が、 なんとなく完成を急がせない部分もあるかもしれない。 理想の仕上がりを想像しながら、 でも生活との折り合いも少し考えながら、 そのあいだで止まっている感じ。

    途中の工程にも愛着が出てしまうのは、 たぶんそういう時間が長いからだと思う。 金継ぎは、そういう感覚にちょうど合っていた。 なんか好きなんよね、という感じ。

    text — homeflow編集部

  • 透明感って、なんなんだろう。

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    子どもの頃から、ガラスやビー玉や水が好きだった。 光が透けるもの、揺れるもの、温度が感じられるもの。 みんなそういうものが好きだと思っていたけれど、 どうやら好きの深さが少し違ったらしい、 と気づいたのは、だいぶ後のことだった。

    大学の頃、白い服をよく着ていた。 全身真っ白なんて、当時はあまり誰も着ていなかった。 肌は焼かないようにして、色素の薄い髪にして、 ベージュやブラウン系のメイクをしていた。 誰かにどう見えるか、というより、 もっと自分の中のイメージだった気がする。 白い服を着ると、自分が少し透明になった感じがして、 それが好きだった。 あとから振り返ると、今で言う「透明感」に近かったのかもしれない。

    あの頃の透明感には、 儚さや軽やかさや、 未来がまだ曖昧だった頃の空気も混ざっていたと思う。 若さの透明感は、確かにあった。 それは否定しようがない。

    正直に言うと、未練もある。 何となく白い服を着るだけで、 持ち前の透明感みたいなものがすっと出ていた頃。 あの感じにまだ憧れる。 年齢も体型も変わって、肌にはノイズも増えて、 それは自然なことだとわかっていても、 あの頃の軽やかさは、やっぱり少し羨ましい。

    でも、目指しているものの核は、 たぶん昔から変わっていない気がする。 透明で、揺らいでいて、光が通るような空気感。 ガラスや水に惹かれていた頃から、 たぶんずっと同じものを探している。

    肌のノイズを減らして、 土台に、そういう空気を宿したい。 あの頃に戻りたいわけでもない、たぶん。 でも、なんかずっとそこに向かっている。

    ガラスも、水も、年を取らない。 光の通り方は、変わらない。

    年を重ねても、空気は凛としていられる。 そういう空気を、自分で作っていける気がしている。 なんとなく、ずっとそう思っている。

    text — homeflow編集部